終戦の日(昭和20年8月15日)から、丸70年。

70年前の私は、9歳の子供でした。

学徒動員・少年兵に招集されることもない年齢であり、上級生ほど長期の軍国主義教育を受けることもありませんでした。

当時、太平洋戦争(大東亜戦争)に関する知識といえば、学校で教えられる、勇敢な兵隊さんのお話や、日本軍の輝かしい戦果など(これも、後になれば、事実とは程遠い情報とわかります)。

それらを真実と信じ、神国日本の勝利を確信しておりました。

そして戦後、貧しくとも、特にそれを苦にするでもなく、新しい時代に向かって、進んで行ったようです。

平穏な田舎での生活は、さしたる混乱もなく、新しい時代の到来を、旺盛な好奇心で、受け入れていったと思います。のちになって戦後に学んだり、又聞きしました戦争体験など、戦時中とは違った視点で、戦争を実感していたようです。

戦時中の日常回顧録

今回から何回かに分けまして、私の少年時代。戦時中そして戦後まもない頃を回顧し、その内容をブログにて公開いたします。

空襲など、直接の被害のない田舎で過ごした戦争時代ですから、私が語れる戦争実体験など、ごくごくわずかなものです。

取り立てて語るべきものがありません。ということで、詳しく語る機会も、これまでありませんでした。

ですが、今年は終戦から70年という節目ということで、当時の日常、少年時代を回想しながら、ブログに綴ることにしました。

今回は、私が戦時中の大半を過ごした「学校生活」を紹介します。

学校生活

戦時中、生活の大半を占めたのは、学校です。

離れ山里(大興善寺)住まいの私は、戦時中、初等科1年から3年まで、寺近くにあった田舎の分校に通うことになり、のんびりした境遇で、それなりに学校生活を楽しみました。

終戦間近の昭和20年4月からは、徒歩で1時間ほどの本校(現在の基山小学校)に、通うことになります。

本校では、分校の頃と比べますと、「愛国心教育」が徹底され、毎日の学校生活に厳しさを感じました。ですが、昭和20年春以降は、戦争末期ということもあり、授業をまともに受けられなかったことを、今でもはっきりと覚えています。

基山国民学校園部分教場(昭和20年3月まで)

私は、昭和17年春から昭和20年春まで、基山国民学校園部分教場(以下、分校)に通っていました。

分校は、大興善寺から歩いて5分くらいの場所にありました。

お弁当のひととき

分校での楽しみは、持参の「お弁当」を食べる時間でした。弁当の中身は、「おにぎり・お芋・お漬け物・お煮しめ」などです(今考えれば、お粗末なものです)。

肌寒い季節には、冷えた弁当を、学校備え付けの

弁当ぬくめ

が、ほかほかにあたためてくれました(現在でいう電子レンジの役割です)。

アルマイト製の弁当箱を並べるための棚があり、そこに各々の弁当を並べます。

火力で温めるのですが、現在のコンロのような「点火装置」などありません。ということで、生徒たちが、近所のお家に「種火」をもらいに伺っていました。

種火を学校に持ち帰り、「弁当ぬくめ」に点火し、弁当を温め、あつあつのお弁当を食べる。という一連の作業は、分校生活の楽しいひとときとして、今も懐かしく憶えております。

配給品の抽選

配給品の抽選も、楽しかった思い出です。

戦時中は(戦後しばらくも)、配給品に頼るところも大きかったです。とはいえ、物資が限られていく中では、当然のように、十分に行き渡ることはありませんでした。

私たち生徒に身近な配給品といえば、「靴」や「衣服」。

子供たちへの配給品は、全員に行き渡らないというよりも、わずかに行き渡るといったほうが良いくらいで、おそらく学校での抽選方式は、大人が考えた苦肉の策だと思われます。

当時、この近辺では、裸足で登校するのは当たり前。裸で登校するのも、それほどめずらしくないという有様でした。

そのような事情もあってか、抽選はとても盛り上がりました。

今思い返しますと、私たちにとりましては、賑やかな時間を過ごすことは、配給品以上に貴重であったのかもしれません。

戦時下ではありましたが、このような場面を懐かしく思い出せるくらいには、のんびりと、そして楽しく分校での生活を過ごしていた記憶があります。

基山国民学校初等科(昭和20年4月から)

戦争末期の昭和20年春。私は、4年生に進級するとともに、寺から徒歩で1時間ほどの距離にある「基山国民学校初等科」(以下、本校)へと通うことになります。

本校での教育は、分校の頃より大変厳しくなりました(「指導が厳しくなった」という意味も含まれますが、それ以上に「指導はおろか、授業さえ受けるのが厳しくなった」という意味が含まれています)。 

以下、現在も記憶に残るエピソードをいくつか紹介たいと思います。

葉隠四誓願(はがくれしせいがん)

佐賀は「葉隠の里」と呼ばれることもありましてか、朝礼の際、毎回「葉隠四誓願」を読み上げました(戦後は行われなかったようです)。

以下の様な文言となります。

    1. 武士道において遅れを取り申すまじき事
    2. 主君の御用に立つべき事
    3. 親に孝行仕るべき事
    4. 大慈悲を起し人のためになるべき事

大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)

大東亜戦争(太平洋戦争)開戦日の12月8日にちなみ、毎月8日には、生徒全員で、当時、佐賀県社の「荒穂神社」まで、お参りに行きました(本校に通うことになってから、私もお参りすることになりました)。

終戦の8月まで続けられたことから、私は、数回参加したことになります。

軍事訓練など

戦時中を紹介するテレビ番組などで、よく見かける光景。「竹槍訓練」「防災訓練」などは、本校では(分校時代も含め)、行いませんでした。

「在郷軍人会」の方が、「愛国婦人会」のご婦人方に、「竹槍訓練」「消火訓練」を行われていたのを、当時見かけた程度です。

警戒警報発令

「警戒警報」は、「空襲警報」の前段階の警報です。

この警戒警報が発令されると、休校となりました。

大戦末期は、日本全国で、米軍による空襲爆撃が頻発したこともあり、発令もそれに応じて、増えてまいります。

本校に通う途中、警戒警報のサイレンが鳴り響くのを耳にして、寺へと引き返すこともめずらしくありませんでした。

分散授業

昭和20年初夏ぐらいには、本校校舎が、(大日本帝国)陸軍に接収されます。

それでも、基山町内の各地区に分かれ、それぞれの公民館などで、分散授業が行われるようになりました。

分散授業でも、警戒警報が発令されると、お休みになりますので、まともに授業を受けることは少なかったことが思い出されます。

分散授業が終わり、本校で再び授業を受けるようになるのは、戦後に入ってからのことになります。