今回は、大興善寺まわりの食糧事情を紹介します。

今思いますと、私の住んでいる場所は、農村でもありましたし、当時としては、比較的食料に恵まれているところでした。それでも、寺ということもあり、お寺の行事は勿論、日常的にも、お参りに来ていただいた方を最優先で、お食事を差し上げておりましたので、私どもの食べるものは、二の次となります。

当時、白米(銀シャリ)というものは、とても貴重な食べ物。ご飯というものは「麦飯」が一般的。あこがれの食べ物として、白米が君臨しておりました。物資不足の戦時中では、なおのことではなかったでしょうか。

そのような食べ物が、参拝者には提供されてましたので、(おそらく白米を求めて)家族連れで、お参りに来られる方も結構多かったように見られました。

戦時下の(私の)献立

参拝者のお食事が、恵まれたものでしたから、子供ながらに羨ましく思うこともありました。

当時の我が家の、日常の食生活は、

朝は、芋がゆ(芋が入ったさらさらなお茶粥。粥というよりもスープみたいなものでした)。

昼は、お弁当(学校で食べました)。

晩は、お粥・麦飯・まれに白米。天ぷら・芋・かぼちゃ・漬け物・野菜のおひたし・豆腐・お味噌汁など、あたりではなかったかと記憶しております。晩ご飯は、上記数品の組み合わせ。いわゆる「一汁一菜」よりは恵まれておりました。

天ぷらは、私の母親がよく作ってくれました。当時としては、貴重なカロリー源ではなかったでしょうか。

自給自足の生活でしたので、食べ物といえば、寺のもつ田畑で採れた農作物がほとんどでした。

タンパク源は、イナゴなどは食しませんでしたので、豆腐などから。動物性タンパク(ニワトリの卵など)には、なかなかお目にかかれませんでした。

田舎の方は、お米のほか、家で採れた野菜を持ってお参りなさるのが、常でありましたし、街からご参拝の方が、差し入れてくださるものの中に、動物性のものがたまに含まれていたときは、大変ありがたく頂戴しておりました(お魚や干物、佃煮など) 。

お肉といいますと、現在では、牛肉をイメージする方も多いかもしれません。ですが当時の牛は、農家にとって不可欠な労働力。そして牛のふんも、肥料として欠かせないものでした。そのような貴重な存在であった牛を、お肉として頂戴するという発想は、まずありませんでした。その代わり、クジラの肉が、安価に入手出来ておりました。それでも、肉をいただくという事は、一年に数回といった塩梅でしょうか。

このような食糧事情は、戦後の昭和22年か23年あたりまで続きます。

大興善寺の農産物

当時の大興善寺は、近所の方に頼んで、二反あまりの田んぼを耕作しておりました。そこで採れたお米が、寺族の命を繋ぎ、加えて、お参りに来られた方々へのお接待になります。田舎の方が、お参りの際、小さな袋に入れてお供えいただく御供米も、貴重なものでした。

それでも、行事などで、参拝者用の米が足りないときには、住職が、近所のお百姓さん(農家の方)に相談してお米を分けてもらっていたようです。

終戦間際、食糧事情が逼迫した頃、食糧難ということで、寺の敷地にも畑が作られます。カボチャに棚を作って懸命に育てていたことが思い出されますし、歩いて30分かかる山地を借用して耕し、大量のサツマイモを育てて、参拝者にお土産として差し上げていたことも、忘れ得ぬ思い出です。
都会の信者さんにとっては、食べ物が最高の おもてなし。という時代でした。
70年も昔の思い出で、晩年三千院門跡門主となった先代も、当時は泥まみれになって、作業に勤しんでいました。ある意味では、貧しかったけれども、幸せなひと時ではなかったかと思います。

兵隊さんの食糧事情

大戦末期、昭和20年の6月か7月頃から、兵隊さんがこの地域に滞在するようになり、寺院がその宿舎となりました。近くの山の材木を伐採して、どこかへ運搬する作業です。お偉方の将校さんは、ご近所の常行寺へ。大興善寺には、下士官以下の兵隊さんが寝泊まりするようになりました。

兵隊さんの食事は、主に飯盒(はんごう)を食器にしてまかなわれていて、当時の私たちにも、みすぼらしい食事風景に思えるほど、お粗末なものでした。そんなこともあって、寺で採れた芋やカボチャなどの農作物を、父(先代住職)は率先して、差し入れしておりました。篤い思いで、止まれぬ気持ちで、猪突猛進する先代住職の心意気は、形は変わっていきますが、心底を流れる精神は、やがて生涯を貫く「愛宗護法」の念として、100歳の長寿を全うするまで続いて参ります。