今回は、私の数少ない戦争体験。そして終戦と戦後まもない頃を回顧します。

大興善寺と戦争

大興善寺本堂のお隣、熊野神社は、村の氏神さまでしたので、必勝祈願と合わせて、出征の壮行激励会がたびたび行われていました。ここから戦地へと向かう兵隊さんも、当時、少なくなかったと思います。
江戸時代から伝わった由緒ある鐘も、供出することになりました。綺麗に飾られた鐘を、馬車に積んで、それを見送った記憶が残っています。当時は、資材として、お寺が鐘や仏具を供出するという行為があちこちで見られた模様です。

戦争末期の大興善寺

大興善寺契園辺りには、当時、たくさんの松の木があり、軍用に松根油を供給するため、子供たちが松から樹液を採取していました。松の木に傷を入れ、樹液が滴り落ちるようにし、それを回収します。戦中のこの行為が遠因となり、30年後には、松の木は1本残らず枯れてしまいました。

終戦間際には、下士官以下の兵隊さん(主計兵)が、30名ほど大興善寺に駐在し、下士官は、庫裏。それ以外の兵隊さんは、本堂に寝泊まりするようになりました。
任務は、森林伐採で、おそらく炭鉱の坑木などの資材調達あたりだったものと思われます。

当時、ある兵隊さんが携えていた日本刀をこっそり拝見させていただいたことがあり、真剣の刀ではなく木刀(刃が鋼ではなく、木の刃)であったことを覚えています。

はじめての戦争体験

昭和20年3月27日。分校では、私たち3年生のお別れ遠足が行われました(4年生になると、基山国民学校初等科の本校に移ることになるシステムでした)。

目的地は、田代(現在の鳥栖市)の「杓子ヶ峰」という山の中腹です。

筑紫平野が一望できる場所で、分校生徒全員で和気あいあいと過ごす予定でした。

ですが、到着して程なく、警報が鳴り響き、空襲の場面に遭遇します。山腹から下に広がる平野に、爆弾の落とされる轟音とともに、見たこともないような火柱が立ち上がっていました。

まるで目の前で燃え盛っているようにも映った光景。それは、ここから10kmほど先の「大刀洗飛行場」の惨状でした。今にして思えば、太刀洗飛行場最初の空襲が、お別れ遠足の日だったようです。 

当時の「大刀洗飛行場」は、東洋一とも謳われた、陸軍有する巨大な飛行場でした。本土防衛の要です。

「杓子ヶ峰」からの展望は、「大刀洗飛行場」が急襲されているというよりも、「目の前」が襲われているように焼き付きました。爆撃の轟音が、すぐそばで響いているように聞こえたのです。

私たちは、なりふり構わず一目散に藪の中へと駆け込みました。大人である引率の先生も、同様の行動をとっていたことから、凄まじさがいくらか伝わるのではないかと思います。

現実の空襲(大刀洗大空襲)を、はじめて目の当たりにした瞬間でした。

空襲

戦時中、私が空襲を体験した(見た)のは、「大刀洗大空襲」のみでした。

基山町内でも、空襲はあったそうです。町の北部(大字小倉)に住んでいた同級生が機銃掃射を受けたと(本人から)聞いたことがあります。

米軍の爆撃機「B-29」は、何度も見かけたことがあります。大興善寺上空は、「B-29」の(おそらく空襲のための)飛行ルートでした。大編隊を成して、高い上空を南から北へと飛んでおり、その姿にはじめて遭遇したとき、私は逃げ惑いました。

近所の大人には「ここには落ちんよ」と言われ、笑われていたことを覚えています。

「B-29」が北上する姿を幾度となく見るようになりますと、おなじみの光景ということになり、逃げ隠れすることもなくなりました。

終戦

終戦を知ったのは、昭和20年8月16日。終戦の次の日です。

寺に駐在する兵隊さんが教えてくれました。

「どうやら日本は、戦争に負けたみたいだ」

と聞いたときは、まさに暗雲立ちこめる状況。戦時下の中で、それなりの日々を過ごしていたものにとりましては、不安だらけでした。

兵隊さんは、敗戦の事実を知ると、すぐに撤退し、大興善寺は、いつもと変わらない日常に戻ります。

とはいえ、終戦直後、「男は米軍に皆殺し。女は米軍に連れ去られる」といった噂が飛び交っていましたので、なおさら不安に駆られました。

あらぬ噂や一抹の不安が消えかけた頃、当時私たちが「新道路」と呼んでいた「国道3号線」に、米軍のジープが走る光景を目にしました。

舗装されていない道路を、砂埃をあげながら、颯爽と走るジープ。急ブレーキで迅速に停止するジープを眺めながら、これまでにない驚きを受けました。

終戦直後の学校

陸軍に接収されていた本校(基山国民学校初等科)も、戦争が終わり、元に戻ります。

私たち生徒も、もはや警報に悩まされることなく、学校へ通うことになりました。

二学期中、先生の指示のもと、教科書を墨で塗りつぶすことになります。

4年生は、国語の教科書に関しまして、多くのページを塗りつぶした記憶があります。

戦後のスタート

秋口の運動会にて、学校に保管されていた「軍旗」が燃やされました。

運動会当日。「海ゆかば」の曲が流される中、旗が燃やされていく光景が目に焼き付きました。

参加した人々の目に、どう映ったのかわかりかねますが、私にとりましては、戦後の始まりとして、この光景が思い浮かびます。その運動会は、招魂場と呼ばれていた、基山駅前の小山の広場で開かれたものでした。

その後、その招魂場を含む小山一帯が開発され、今では、ニュータウンとなり、モール商店街となっている事にも、時の流れを感じ、70年の歳月が流れていることに歴史の重みを痛感します。