半年振りの説法となりますが、改まって説法といえば、どこからどう切り込んでいったらいいか、戸惑うばかりです。
「宗教家は混乱の世相に対し、何ら有効なメッセージも対応も皆無ではないか。ただ、手をこまねいて傍観しているだけではないか。」という厳しい叱責の声が飛んできます。
この時にどうしなければならないか。と無理に使命感をかきたててみても、所詮は、非力な自分の存在に気づいて、一層の無力感に打ちひしがれます。
人間は、その時の気分によって、強気にも弱気にもなります。周囲の状況が、その気分を支配するようです。

私の場合にしても、寺が紅葉で賑わっている時は、気分も高揚し、何でもできるような感じでしたが、日常に戻れば、弱音がでそうです。
あれほどひっきりなしに鳴っていた電話のベルも、激減。これが日常と思っても、急激な環境の変化です。




大興善寺ホームページにしても然りです。
つつじや紅葉のシーズンは、グーンとアクセス数が上昇しますが、花やもみじが寂しくなっていけば、だんだん減少して、ほとんど人の目にもとまらない存在となります。

小学生や中学生が総合学習のレポート作成のため、お寺にやってきます。
「どうして、つつじを植えたのですか」
「年間、どれほどの人が訪れますか」などの質問に混じって、
「つつじや紅葉シーズン以外の時は何をしていますか」という質問が必ずあります。
「つつじと紅葉のシーズンは、大勢のお客さんを迎えていますが、それ以外の時は、お寺の活動をしております。」納得したような、しないようなことになるのですが、観光寺院として、大興善寺が認識されていることは、紛れもない事実です。

私は大興善寺住職として97代目に当たります。
奈良時代「行基菩薩」開創から、平安「慈覚大師」中興、室町、鎌倉、戦国時代の戦火を経て、江戸時代から、明治、大正、昭和と綿々継承された1300年の歴史の末端に、平成の今があることを考える時、つつじの90年、紅葉の10年は、束の間の線香花火のようなものです。観光的に注目されてきたのは、近頃のことで、本来の任務をおろそかにしているかのような印象を与えていることを恥じなければなりません。

今、寺が、住職の私が当面している課題は、悠久の歴史を輝かせ、歴代先徳の偉業をもっと生かすことです。
幸い、宗門の役職も任期満了。寺にいる時間が増え、参拝者への祈願や法話、回向のお勤めも、余裕を持って対応できるようになりました。
とはいっても、世間的には老人の部類ですから、思うほどの活動はできないかもわかりません。

自分にできることは何かを考え、身の丈に合った活動を展開することから、亀のような歩みであっても、マイペースで参ります。
「気力」「能力」「体力」と相談して、「めでたさも中くらい」、人との出会いを楽しみに、明日は、今日よりすばらしい日となることを念願します。

「つつじ寺説法」大上段に振りかぶっても、所詮は、饒舌を費やしただけのことになりました。