大興善寺と比叡山に関わるエピソードを語るについては、師匠であり父である神原玄祐師を抜きにしては語れません。今年は、平成7年4月数え年102歳で遷化された師僧の17回忌にあたります。師は、山田恵諦座主とは、比叡山中学の学友で、青年時代から老境に至るまで、それは親密な交友がありました。師僧が2度も宗務総長を勤めたのも山田猊下のバックアップがあったからこそと思います。一度目の総長は「大講堂」焼失の折、二度目の総長は「比叡山大学」設立をめぐって宗内の世論が大きく対立して、その収拾の役が回ってきたためと記憶しております。一見、向こう見ずの熱血漢に見えましたが、今にして思えば、「先見の明があった」ということに尽きるようです。我が寺のことより、比叡山のことや天台宗のことを、心から心配し、一旦、こうと決めたら、何が何でも実行に移するタイプです。

大講堂焼失のあとは、本気で、「時代に即応した、多機能の大講堂を再建したい」という構想をもっていたようですが、それは実現せず、坂本の讃仏堂を山上に移して現在の大講堂が再建されました。

先代住職が活躍した時代は、昭和7,8年くらいから昭和55年までの50年に及ぶ長期間です。宗機顧問を辞して宗議会議員になるなど、前代未聞です。

戦中、戦後、汽車の切符も手に入りにくい時代、急行列車や寝台車さえ走っていなかった昭和20年代、随分時間をかけて、坂本に通っていたかと思うと、そのエネルギーには舌を巻きます。

住職が留守がちな寺をあずかっている副住職の私は、このような無鉄砲な師僧をはらはらと眺め、セーブする役回りを勤めていたようです。

生前は、父である師僧にブレーキをかけていた私でしたが、いろいろのお役をいただき、いろいろの所に顔を出すようになり、亡き師僧の恩恵を随所にいただくようになりました。現在の私は、亡き父にそっくりというので、多くの高僧から声をかけて頂きます。

この度、私が説法師のご下命を拝したことも、古いご縁が回りまわって今日に至ったものだと感慨にふけっております。4年前の平成19年8月7日、98歳で母が亡くなり、今日は、祥月命日です。
伝教大師さまが、亡き、ご両親のためにご説法をなさったという、この戸津説法に、私のことを取り立てて申し上げるのも恐れ多いことですが、話がここにたどり着きましたので、追懐の思いを披瀝します。